SSブログ

流行病は終わらない [記憶]

7月パリ祭も過ぎて
つれづれの記録。

庭の生き残り
ガクアジサイが小さな花をつけた。
大好きな花。
IMG_8318.jpg

今日、コロナの患者が過去最高数になった。
重症化は緩いようだが、感染力は強い。
来月早々に4回目のファイザーに予約。
線状降水帯の被害か
東北に大雨。
災害はつらいですね。不安ですし。

最近のこと。
選挙があり
応援演説中に狙撃事件があり
ウクライナは泥沼化してきており

仕事では
アルバイト従業員が手首骨折。

自宅では
近所の新築が進行中。

すごく暑い日が続くと思ったら、
雨が降って寒いくらいの夜露。
風邪ひきそう。

コータローさんが亡くなったり

ファイターズが7連勝したり。

世の中は色々な出来事で組みあがって行く。

高校の後輩(ずっと年下の)詩人
文月悠光さんのエッセイを読了。
「臆病な詩人、街へ出る。」
面白く読ませていただきました。

血圧は
やや高め安定。
血糖値A1cは、7.1で変わらず。
ホントウニダイジョウブナノカ?と
カメが覗く。
IMG_8324.jpg
「うん、大体ね。
だけど、軽い眩暈が続いている。」

走るだけで癒される。
札幌市西区を横断する数キロの道路の
端から端まで
ラベンダーが美しい。
IMG_8286.jpg
nice!(12)  コメント(8) 

初めての体験。困った。auの回線がトラブル。 [記憶]

auの回線がトラブル。
電話が使えません。こんなに大規模で長時間は初めて。
auは大手の中で安定した会社で大きなトラブルがなかった。
このまま、月曜日まで使えないとかなりまずい。
Wi-Fiの無い、屋外ではLineも使えないことになる。まずい。

さて、気持ちを変えて
思い出でも語るかな。

その一。
cafe「佛蘭西市場」の事。
以前にも書いたかもしれないが、創業間もなくのころ、カウンターマンとして就職した。
ほとんどが夜勤の番だった。毎晩働いても、3万円くらいにしかならなかった時代。
150円の珈琲代が高い方だった。
私は写ってないが当時の昼スタッフたちの写真記事がある。
仏蘭西市場スタッフ20140918.jpg
なかなかの評判をっとた一時代築いた店でした。
オープンサンドは近所だったドンクのススキノ店にフランスパンを毎日買いに行っていた。
鉄鍋で出す西洋風おじやもおいしかった。
何より人気だったのはナポリタンと当時珍しかったカルボナーラ。
当時の札幌ではアルデンテの茹で方は珍しい方だった。
私は初めてここでマスターに教わったのでみんなこうなんだと思っていたら
住まいのアパート近くの喫茶店で出てきた自称本場仕様のナポリタンが
あまりに太っていて柔らかくて仰天して店の人と険悪になったこともあった。
仏蘭西市のメニューにはウインナーコーヒーや輪型の焼きプリンもあった。
カフェオレは珈琲とミルクをそれぞれ雪平鍋で温めて
両手に鍋をもってカップに一緒にそそぐ、珈琲とミルクが絡み合って一本になって注がれてゆく。
なかなか美しい。私は、カウンターでそれを見せるのが得意だった。
お客さんの中には放送局、映画好き、美大の先生たちが多かった。
そういえば、創成川を渡ったところにあったはずのストリップ小屋の踊り子さんや危ない兄さんたちも来ていた。
若かった私のファンも少しいた。カウンターをにぎわしてくれた。
店内内装はマスターの友人の東京のデザイナーさん渾身の企画で
段差のあるボックス席が多用された割と重厚な作りで
そこに、市内の骨董屋さんとの今風に言えばコラボで古道具や柱時計がいっぱいだった。
仏蘭西の蚤の市がテーマだ。
カウンターも広くて落ち着けた。
やがて屋根裏風味の二階も充実して繁盛した。
ここではビッキさんの個展やビーフィルミング(自主製作映画の上映)なども開いた。
わたしも、8ミリで友人たちと石狩海岸までロケ(?)して制作して参加したことがあった。
ちなみに、私の結婚披露パーティーはここで皆が盛大に祝ってくれた。
マスターは皆に愛されて、「Toshi」と呼ばれていた。西洋放浪の経験からかもともとなのかは判然としないが酔うとよく「ハグ」をしていた。
佛蘭西市場の裏の「スペイン酒場」で店は根室出身の大学生「さいはて」さんや後からは東京時代の友人のター坊などに任せて、マスターは客と呑んだくれていた。
佛蘭西市場は主に奥さんの仕切りだった。
プリンは奥さんの友人の渡辺さんが作ってくれた。
のちに、スイーツ系は杉沢さんが担当。
カウンターは鵜川君、中ちゃん、私の3人制。
ホールはいくちゃん、後藤のマリちゃん、東京から流れてきた麻ちゃん、などなど。
1405756062332.jpg
開店一周年の時だったか、
ある月、売り上げ目標が設定されて見事に達成し、みんなみんなで大勢でまだ新しかったプリンスホテルのレストランで食事をごちそうになった。
みんなチームワークがよかった。特に仲が良かった5人は店の骨董スプーンセットを買って1本づつ持ってそれぞれの道へ分かれて行った。
1405755952853.jpg
それから50年、全く消息は知れない。
私はその後またマスターにお世話になって居酒屋「銭湯」で開店1年間店長として働いた。
たくさんの懐かしい思い出。

その二。
上記の仕事がススキノのはずれだったので、仕事帰りによく行ったのが、
おでんの「河庄」。三味線上手の師匠の店。座敷に上がり込んでお子さんたちと寝ていたこともあった。仕切っているおばちゃんがいて師匠はいつも酔っていた。今夜は「一人500円で」と大盤振る舞いで丑三つ時から朝方まで時間を過ごした。そういえば、お客の持ち込んだバッタの佃煮を初めて食べたのはこのカウンターだった。
そして、さらに朝方、市電が走るまでいたのが「サンパウロ」
サンパウロマッチ.jpg
入口に「7」が三つ並ぶとじゃらじゃら出てくるゲーム機があって、はまってしまうと電車賃しか残らなかった。ブラジル帰りの威勢のいいママと眼鏡の温厚なマスターがいて食べ物は美味しかった。
ずいぶん年月が過ぎてから、私が納沙布岬のお土産店でウッドクラフトコーナーを仕切っていたとき、マスターが一人旅してふらりと入ってきた。まったくの偶然。声かけるとやはりご本人。驚きました。
その後、札幌へ越した後に新川の店にも行きましたがシュラスコや豆の料理、美味しかった。
 もう一軒よく行ったのが、スナック「らんろう亭」。髪がクリクリのマスターと体格のいい坊主頭の相棒の店。ここも、夜中に行くので、警察が回ってくるとアルコール類を引っ込めた。確か23時を回るとアルコールはご法度だった時代である。

ほかにも、仕事以外ではオヨヨ通りの小林先輩がいた店や、都通りのゆうさんのやってたスナックなどなどよく行った。喫茶店では、アメリカーナ(のちに、犬狼都市)やELEVIN、B♭、お世話になった「旅」(藤沢、藤原の二女史の店)、タマキ、数え上げたらきりがない。


と、ここまで思い出ボロボロ書き連ねても
au回線は復帰しない。長期戦は勘弁してほしい。仕事にならなくなる。
明日の聖書大会の視聴も私は大丈夫だが、困る仲間も出てきそうだ。
さて、朝起きたら治ってるかな。
工事さんたちはご苦労様だが肩にかかっているものは大きいので頑張ってもらうしかない。
nice!(11)  コメント(6)