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初めての体験。困った。auの回線がトラブル。 [記憶]

auの回線がトラブル。
電話が使えません。こんなに大規模で長時間は初めて。
auは大手の中で安定した会社で大きなトラブルがなかった。
このまま、月曜日まで使えないとかなりまずい。
Wi-Fiの無い、屋外ではLineも使えないことになる。まずい。

さて、気持ちを変えて
思い出でも語るかな。

その一。
cafe「佛蘭西市場」の事。
以前にも書いたかもしれないが、創業間もなくのころ、カウンターマンとして就職した。
ほとんどが夜勤の番だった。毎晩働いても、3万円くらいにしかならなかった時代。
150円の珈琲代が高い方だった。
私は写ってないが当時の昼スタッフたちの写真記事がある。
仏蘭西市場スタッフ20140918.jpg
なかなかの評判をっとた一時代築いた店でした。
オープンサンドは近所だったドンクのススキノ店にフランスパンを毎日買いに行っていた。
鉄鍋で出す西洋風おじやもおいしかった。
何より人気だったのはナポリタンと当時珍しかったカルボナーラ。
当時の札幌ではアルデンテの茹で方は珍しい方だった。
私は初めてここでマスターに教わったのでみんなこうなんだと思っていたら
住まいのアパート近くの喫茶店で出てきた自称本場仕様のナポリタンが
あまりに太っていて柔らかくて仰天して店の人と険悪になったこともあった。
仏蘭西市のメニューにはウインナーコーヒーや輪型の焼きプリンもあった。
カフェオレは珈琲とミルクをそれぞれ雪平鍋で温めて
両手に鍋をもってカップに一緒にそそぐ、珈琲とミルクが絡み合って一本になって注がれてゆく。
なかなか美しい。私は、カウンターでそれを見せるのが得意だった。
お客さんの中には放送局、映画好き、美大の先生たちが多かった。
そういえば、創成川を渡ったところにあったはずのストリップ小屋の踊り子さんや危ない兄さんたちも来ていた。
若かった私のファンも少しいた。カウンターをにぎわしてくれた。
店内内装はマスターの友人の東京のデザイナーさん渾身の企画で
段差のあるボックス席が多用された割と重厚な作りで
そこに、市内の骨董屋さんとの今風に言えばコラボで古道具や柱時計がいっぱいだった。
仏蘭西の蚤の市がテーマだ。
カウンターも広くて落ち着けた。
やがて屋根裏風味の二階も充実して繁盛した。
ここではビッキさんの個展やビーフィルミング(自主製作映画の上映)なども開いた。
わたしも、8ミリで友人たちと石狩海岸までロケ(?)して制作して参加したことがあった。
ちなみに、私の結婚披露パーティーはここで皆が盛大に祝ってくれた。
マスターは皆に愛されて、「Toshi」と呼ばれていた。西洋放浪の経験からかもともとなのかは判然としないが酔うとよく「ハグ」をしていた。
佛蘭西市場の裏の「スペイン酒場」で店は根室出身の大学生「さいはて」さんや後からは東京時代の友人のター坊などに任せて、マスターは客と呑んだくれていた。
佛蘭西市場は主に奥さんの仕切りだった。
プリンは奥さんの友人の渡辺さんが作ってくれた。
のちに、スイーツ系は杉沢さんが担当。
カウンターは鵜川君、中ちゃん、私の3人制。
ホールはいくちゃん、後藤のマリちゃん、東京から流れてきた麻ちゃん、などなど。
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開店一周年の時だったか、
ある月、売り上げ目標が設定されて見事に達成し、みんなみんなで大勢でまだ新しかったプリンスホテルのレストランで食事をごちそうになった。
みんなチームワークがよかった。特に仲が良かった5人は店の骨董スプーンセットを買って1本づつ持ってそれぞれの道へ分かれて行った。
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それから50年、全く消息は知れない。
私はその後またマスターにお世話になって居酒屋「銭湯」で開店1年間店長として働いた。
たくさんの懐かしい思い出。

その二。
上記の仕事がススキノのはずれだったので、仕事帰りによく行ったのが、
おでんの「河庄」。三味線上手の師匠の店。座敷に上がり込んでお子さんたちと寝ていたこともあった。仕切っているおばちゃんがいて師匠はいつも酔っていた。今夜は「一人500円で」と大盤振る舞いで丑三つ時から朝方まで時間を過ごした。そういえば、お客の持ち込んだバッタの佃煮を初めて食べたのはこのカウンターだった。
そして、さらに朝方、市電が走るまでいたのが「サンパウロ」
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入口に「7」が三つ並ぶとじゃらじゃら出てくるゲーム機があって、はまってしまうと電車賃しか残らなかった。ブラジル帰りの威勢のいいママと眼鏡の温厚なマスターがいて食べ物は美味しかった。
ずいぶん年月が過ぎてから、私が納沙布岬のお土産店でウッドクラフトコーナーを仕切っていたとき、マスターが一人旅してふらりと入ってきた。まったくの偶然。声かけるとやはりご本人。驚きました。
その後、札幌へ越した後に新川の店にも行きましたがシュラスコや豆の料理、美味しかった。
 もう一軒よく行ったのが、スナック「らんろう亭」。髪がクリクリのマスターと体格のいい坊主頭の相棒の店。ここも、夜中に行くので、警察が回ってくるとアルコール類を引っ込めた。確か23時を回るとアルコールはご法度だった時代である。

ほかにも、仕事以外ではオヨヨ通りの小林先輩がいた店や、都通りのゆうさんのやってたスナックなどなどよく行った。喫茶店では、アメリカーナ(のちに、犬狼都市)やELEVIN、B♭、お世話になった「旅」(藤沢、藤原の二女史の店)、タマキ、数え上げたらきりがない。


と、ここまで思い出ボロボロ書き連ねても
au回線は復帰しない。長期戦は勘弁してほしい。仕事にならなくなる。
明日の聖書大会の視聴も私は大丈夫だが、困る仲間も出てきそうだ。
さて、朝起きたら治ってるかな。
工事さんたちはご苦労様だが肩にかかっているものは大きいので頑張ってもらうしかない。
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大腸内視鏡検査 [記憶]

何だか疲れてます。

昨日、無事に内視鏡検査完了。
朝、8:30から受付して大腸洗浄剤を2時間かけて
ゆっくりと2L飲む。
あと500CCぐらい残して
急に飲み込めなくなってくる。
腸内がきれいになるにはもう少し時間がかかる。
斜め前方にある大型TVの画面では日本対中国のカーリングの試合が続いている。
持って行った電子図書の通俗小説にも集中が利かなくなり
ぼんやりとTV画面を見やりながら
急襲する便意を待つ。
すぐ横に備えられている快適なトイレに通うこと14回ほどで
何とか準備が整い
12時をだいぶ回ってから、やっと検査の支度に入る。
混み合っていた検査に空きができて
呼ばれる。
検査は、自分もモニターを見られるので
いつも「生きている体内、内臓は綺麗だな~」と感心しているうちに終わる。
胃カメラと違ってずいぶんと楽だ。
結果は、3年前の手術の時から確認している2ミリほどのポリープが
まだそのままなのと新たに別のところにも1個同様なのがあったくらい。
あとは少し赤く潰瘍になっている部位があった。
下痢などするようなら消化器内科を受診するように助言有。
手術の接合部は綺麗。
直後の所見はそんなところ。「ほ!」

あとは、
金曜日に主治医からCT検査、血液検査と合わせての受診解説待ち。

なんか、回を追うごと
年を重ねるごとに検査がつらくなってくる。
疲れが残るようになる。
致し方ないのだろう。

病気のなくなる新世界に思いをはせる。
聖書預言には希望がある。

3回目のワクチン接種も3月4日に決まった。
三度、ファイザー製薬。
効果は薄くとも
副作用の少ない方をチョイス。

(写真は昭和31年ころの家族団らん、祖父とジンギスカン鍋を囲んで。今住んでいる同じところにあった小さな平屋の居間。窓は凍れているのか融けてきている模様が船のようにみえる。抱かれて甘えているのが自分。)
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造影剤アレルギー [記憶]

びっくり残念。
腹部CT検査のために造影剤を使う。
前回、前々回、くしゃみなどの軽度の症状があり
今回は抑制する飲み薬を処方してもらって臨んだ。
前日の真夜中に3錠。
当日の検査直前に1錠服用。
処方箋の通りに飲んで臨んだのだが・・・・
結果は、以前に増して症状が出た。
顔も首も腕も赤くなって軽度のかゆみ。火照り。
主治医に連絡がついて、慌てて診断。
抑制する点滴を投与。
次第に収まってきた。
「ほっ」
事前に飲む処方の薬についての疑問を尋ねると・・・
主治医曰く
「あれ~この直前に飲むのも3錠のはずだけど、」
私と看護師さんが声を合わせて
「でも、薬の処方には1錠3日分って書いてありますね!」
主治医「ごめんなさい!!!私の間違いです。3錠飲むんです。」
だからと言って反応を抑えられたかは疑問のまま。
この先CT検査はどうなるんだろうか?
使える造影剤あるのかなあ・・・

まあ、大事に至らなかったけれど
やはり疑問があったらしつこく聞きなおした方がいいと学んだ。
薬局で確かめても、処方箋はこうなってますねの答えだけだったので
まあ、そうなのかなあと。

さて、週明けの月曜日は大腸内視鏡検査。
こっちは、スムースに行ってほしい。
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2022年とは [記憶]

また、
年が改まったが、さて「2022年」とは、どんな年になるのか。
残された「時」は、どれほどか。
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よく考えてみる、年頭。
「諦めない」を忘れずに進む。





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1972年友からのエールから遥か [記憶]

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あの時もらったモノクロ写真には
「裏」があった。
叱咤する心からのエール。
19歳の自分には響いた。
高校を何とか終えて、上京(古い言い回しだと思う)して
目まぐるしく生きていた頃のこと。
せっかく知り合った女友だちが自殺したり、頼りの思想仲間が解散したり、新宿で新しい仲間ができて鹿児島までヒッチをしたり、
帰札したら冬季オリンピックだったり、再上京してアテネフランセに入学したり辞めたり、ほかにも恋をしたり、遊び惚けたり、でも、ひたすら真剣に忙しく駆け抜けていた。
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そして、今日まで生きてきました~♪
これからも、生きてゆくでしょうと。

ずいぶん前、
件の友が胃の手術をしたときかなり心配した。
でも、あれから友もしっかりと長生きしている。

こんな時代が来るなんて
そもそも、21世紀って
僕たちには「アトム」の時代。
「2001年宇宙の旅」。

身辺整理していると
立ち止まること多くて。
でも、前を向くための作業なので
感慨に浸ってばかりではいられない。

もっともっと「物」とお別れして
極端に言うと、鞄一つの旅人のようになりたいものです。
ズボンがジーパンとスーツスラックスの2本しかなかった、そんな時代もあったのだから。
それでも、毎日生きていられました。
そこまで、簡素になれなくても、いつか使うは「いつか」?よく考えたい。

ねえ、
「かめ」と「コタ」はどう思う?
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「知らな~い。」

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春進む [記憶]

新年度も
生きてはいる。

体調不良も、肺のレントゲンは
全く問題なし。(ほっ!)

早々とタイヤ交換も終わってるし
あとは花が咲くのを待っている。

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気がかりというのでもないが [記憶]

このところ少し雪の嵩が増してきた。
夜半に窓から見ると断熱ガラス越しに美しい白い世界が
街灯に照らされて光っている。
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冬は緑がなくなってさすがに淋しいのだが
それはそれで枯れたなりの美しさがある。
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そして、
これは冷え切った朝の自動車のボディに咲いた
雪の花。
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美しい造形美。
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気がかりというのは、
この日常とは全く関係のないこと。

2020年に地震・噴火が頻発していた鹿児島県の吐噶喇(トカラ)列島、諏訪之瀬島のこと。

私がもうすぐ19歳になるという1971年の暮れの事。
新宿西口で出会った JIN、RIE・アパッチたちと11/28に東京を出発。
ヒッチハイクで鹿児島へ向かった。
12/6 12:00に鹿児島市天文館通喫茶「コロネット」で再会を約束し
ばらばらに旅は続いた。
携帯電話も無くただただ、その時間にそこへ行けば会えると信じて。
そして、薩摩白波の香りとともに再会した僕らはさらなる仲間と
JINの実家がある志布志の浜に行き数日過ごしてから
やがて鹿児島市内に戻ってきた。
宿は「コミューヌ・ハウス」<臥蛇荘>部屋は雑魚寝。
みなで自炊。宿代はあったようななかったような。
宿主に付いて鹿児島港まで魚(天然色の美しい)をもらいに行ったり
市場でくず野菜をもらってきたりもした。
JIN・アパッチ・ピエロ・無弦・GAISO・仙人・RIE・JIN兄・・・ニックネームしか知らない
気のいい仲間たちがいた。
12/20 アパッチ・KATUMI・絵描き(三十日修)・パスカル・そしてワッコン(牛島史江)と
自分の6人で鹿児島大学医学部のコンクリート打ちの日雇いバイトに。日給2,000円。
仕事が終わるとバイト代を手にして、ワッコンと大塚君はパンやロープなど買い物をして
夜の10時に「としま丸」で諏訪之瀬島に戻って行った。
その島では「部族」の仲間がコミューン生活をしているという。
作物がよく育ち、村人とも力仕事などで協力できているという話であった。
一瞬に近い出会いであったが意気投合した。
半年いられたら作物も1クール。家も建つので最低半年目安で島にきませんかとオルグされた。
結局、連絡船に乗ることもなく帰札したので、
それから、全く縁はないのだが
去年は頻繁に諏訪之瀬島の地震や噴火のニュースを見聞きして
あの人たちはどうしているんだろうかと思い出す。
市内で逗留した「臥蛇荘」は様々な人が寝泊まりしていた。
路地の角にはいつも私服が見え隠れしていた。
赤軍の関係者が出入りしているとの情報からだったらしい。
誰が誰やらわからないニックネームだけの世界であった。
上記のほかに、克己・ヤー・尚さん・リュウなどがいた。

12/26(日)昼下がりに鹿児島を出て長距離トラックに乗せてもらって
12/27(月)夜中の1時半に雨の福岡着。無理くり「マット」に泊めてもらう。
こうして志布志の海岸生活とも
「臥蛇荘」の不思議な心地よい毎日とも
吐噶喇列島諏訪之瀬島の憧れとも<さよなら>。
そして、札幌への帰途「広島駅構内」でああ、19歳になったんだと一人誕生日を嚙み締めた。

毎年、暮れの福岡国際マラソンのニュースを見るとこの鹿児島行を思い出すのだが
(と、いうのも、不安のうちに鹿児島に到着したあと西鹿児島駅待合室でパンの耳をかじりながら見たマラソンでウェイン・ショーターが彗星のごとく優勝したからだ。)

でも、去年は頻繁に地震などのニュースを見て、より鮮明に想起させられた。
気がかりというほどではないのだが。
半世紀前の話である。
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また一から [記憶]

68歳
スタート。

今年も12月は積雪が少ない。

来年はこの聖句で一年過ごす。
イザヤ30:15

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年若い友人が描いてくださった「かめお」。





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ゴールド免許更新 [記憶]

比較的に空いていそうな平日に
更新してきました。
次は5年後の73歳。
写真は相変わらず闇討ちにあったかのようにバッサリと撮影。
あ、もう済みましたか。また寝ぼけた写真。
現実が映し出されている。

コロナ禍の中、何も触れずに30分の講習も完了。
視力検査も押し釦でなくて指さしでチェック。

それにしても寒くなって
本格参入の冬。
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このところのこと。
長年使ってきたauを解約。格安SIMにキャリア変更。
「mineo」に番号変えずに乗り換えです。
同時に「iphon11」に機種変更。
androidからの乗り換えで戸惑いしきり。

たまたま、メインPCも「HPの一体型」に変更中。
あれこれで、迷路に。

気が付くと、年末調整の季節。
ストレスの季節。

先日、長い間ご無沙汰して失礼していた古い友人に手紙。
直ぐに返信いただきました。ご夫婦ともいろいろあってもお元気とのことでした。
でも、もう高齢になってきて何かあってもと物は処分してシンプルに静かに暮らしておられとか。
同封していただいた馬の抽象版画と、以前にいただいていた作品たちの。
版画家のミニミニミニぎゃらり。
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木工をやりたくて北海道にやってこられて知り合えた人生の先輩。
センスの光る版画作品は、小さな作品とは言えやはりプロの技です。
いいなあ、と毎日眺めています。

さて、氷点下の夜がやってきて
やはり冷えますね。


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個展巡り、特急便。 [記憶]

ともに最終日の個展二つ。
札幌郊外の「黒い森美術館」で、
根室から帰郷したときに助けてくださった雇い主で、同志であり、理解者であった「屋中秋谷」氏の個展。
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森を取り込んでとても素敵な空間になっていました。
ご無沙汰していましたのでやや話し込みましたが、
お客様が増えてきてお暇しました。

もう一つ。
真駒内の「kamokamo」ギャラリーで、
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高校時代からの友の「畑江俊明」氏の個展。
素敵な版画のような花の絵画とスチールワイヤーアート。
最終日とあって来客が多くなり写真もやめてお暇しました。
いつものように素敵な作品。
我が家に飾れるような場所があったらな~
天井からつるすものは2点ほど所有してますが壁面は・・・

片道50分のなかなか遠いギャラリー巡りでした。

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